昨日は盛りだくさんでした
まず、金曜日のオチからお話しましょう。
3人目の一般質問で、住友金属に係る課税すべき土地の面積が違うと指摘し、当局がその確認を取ることになりました。しかし、造成したのが23年前なので、その経緯も含めて調べることになりました。
17時15分を過ぎることが確実となったので、17時前に本会議で時間延長の手続きをして、待ちます。しかし、23年前の資料がすぐに出てこず、精査に時間がかかるために、19時に延会の手続きをし、続きは月曜の朝から行うことになりました。
昨日は朝8時半に和駅の東口に集合して、部落解放・人権行政確立要求和歌山県実行委員会と部落解放和歌山県共闘会議の共催で行われたフィールドワークに参加してきました。テーマは「西光万吉の足跡を訪ねる」です。
西光万吉は現在の奈良県御所市にある浄土真宗本願寺派の西光寺の長男として生まれました。西光寺はこの地域の穢寺(えたでら)という、被差別部落の住民が檀家としていた寺院でした。京都で名門の高校に進学するも、同郷の人物に部落出身者だと公表され、退学せざるを得なくなりました。その後仕事をしながら、1922(大正11)年に京都の岡崎公会堂にて全国水平社創立大会を開き、水平社創立宣言を発表しました。この水平社創立宣言を起草したのが西光万吉です。
西光万吉が終の棲家とした旧打田町には、蓮乗寺というお寺があります。秀吉が石山本願寺と戦いを続けている最中、本願寺が蓮乗寺に「大至急鉄砲を送れ」という催促をしていたことが、このお寺に残る古文書から分かっています。蓮乗寺は雑賀衆と同等の扱いをされていたようです。
その後、本願寺派の住民の身分を貶めたことから、部落差別の宗教起源説が唱えられるようになりました。
写真は蓮乗寺の山門で、元禄年間に建てられたものだそうです。
次に、蓮乗寺のすぐ近くにある西光万吉のお家に行きました。西光万吉は昭和45年に亡くなっているのですが、お家はつい最近まで人が住んでいたような感じを受けました。後に分かったのですが、1年半ほど前の、94歳で亡くなられるまで、夫人が住んでおられたそうです。
それから移動して、西光万吉先生を偲ぶ会世話人の保田耕志さんから、西光さんの日記を紐解きつつ、お話を伺いました。
その後、根来鉄砲衆の本拠となった根来寺を見学し、和歌山市へ戻ってきました。
和駅に着いてすぐ、今度はビッグ愛へ向かいました。今日は政治スクールの講義の日です。
今日の講師はわかやまNPOセンター副理事長の島久美子さんにお願いしました。
これまでは官と民で社会を構成してきましたが、今はNPOという第3極が存在します。そこで、NPOと市民生活との関わりなどについて、お話していただきました。今回も活発な議論ができたと思います。
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